鈴の実。

旅のこと、日常のことをゆるりとつづっています。

鈴の実

ロンドンの空の下で、尾崎豊を聴く

こんにちは、きみちゃんです。

 

とうとう、ロンドンの空の下で尾崎豊を聴いてしまいました。

 

封印された扉が少しだけ開いた瞬間です。

 

仕事で、正直大したことしてないんじゃないかと思う仕事がうまくできず、且つ英語も話せず聞こえず、みみっちいことに、

やり場のない♬

と思ってしまったわけです。

 

コモンも知らない情報ですが、きみちゃんは尾崎豊ツウです。

 

渋谷のあの夕日の見える交差点のところにも勿論行ったことがあります。

 

なんなら、小学五年生から高校くらいまで聴いていたもんです。

尾崎さんはちょっと上の世代にはなるのですが、きみちゃんには少し年の離れた兄がいるのでこういうことになるのですね。

尾崎豊の通夜に行こうとしましたが、さすがに田舎から東京は遠いのでやめました。

 

きみちゃんがなぜファンになったかというと、小説を読むことが楽しくなっていたその幼少時期に、音楽にのせてインパクトの ある単語がどんと耳に飛び込んできたからです。

『羊』『自由』『風』『ブルー』『幻想』『落書』『路上』『旗』

この単語だけ拾ったら村上春樹か、尾崎豊かわからないですよね。(あんまり、春樹さんに落書とか旗はないですかね)

 

それから村上龍の『限りなく透明に近いブルー』も読んでいて、そのどこかで村上さんと尾崎豊が対談している記事を読んで、もう小説と同じ感じで、彼の歌を聴いていたのだと思います。

 

当然ながら、小説より音楽の方がある意味ではダイレクトに心につきささるように、彼の言葉はぐっさぐっさと私の中に入ってきました。

 

尾崎豊の書いた小説も持っていたけど、これは彼の歌には遠く全く及ばなかったと思います。そういう点でも小説や文章を書くというのは、才能よりも技術的な面が必要なのだなと、勝手に学んだりしました。

 

それから、尾崎豊がよしもとばななさんの父親である吉本隆明の『共同幻想論』を読んでいたというのもどこかで読み、自分も買って読みました。ちょっとこれは難しかったようで、あまり頭に残ってませんが。

 

彼の何処が好きかっていうと、正直に言ってしまうと、普通は小説や映画でしかしない物語的人生を生(なま)で見せてくれてしまったから、だと思います。

薬物に手を出して、大人になることを否定するしかない存在に自らを追い込んで、音楽を聴いていても、あぁこの人は長くは生きない人だろうなと強く感じてしまう。そして路上で倒れて死んでしまった。

 

正直、そういうのは、作り物の中で起こるべきことであり、それを読んで気分を昇華させる為にあるのだと思いますが、それをナマでしてしまったということで、その引力は若かりし私には計り知れなく大きかったわけです。

 

学校は大して面白くなかったし、これからどうなるのか先も真っ暗だと、思ってた昔。

自分がやりたいことはある気がするのに、こんな田舎じゃ何にもできないと、どんどん勝手に大きな大きな壁を作ってそこで息を潜めて時が過ぎ去るのを待ってた昔。

 

そこにきて、尾崎豊の曲を聴いてしまっているから、どんどん内向的になっていったわけです。

まぁ、結局のところ、その時期はそうすることが必要だったのだと思うのですが。

他に映画館に行くにも遠いすごい田舎だったので、世界は音楽と小説くらいで遊ぶしかなかった。

 

と、ここまで書いて、いやあ、必要だったとはいえ、暗闇の青春時代だなとどんと心が重くなってきます。

 

嫌になってはこないけど、少し勿体ない青春時代だったよなという感想。

 

東京に来て、内向的に考えるのが終わったのか、デビッド・リンチのツイン・ピークスやブルーベルベッドにシフトし忙しくなったのか、本当に全く聴かなくなりました。

 

正直に言うと、もう聴きたくなかった。

正直に言うと、もう二度と。

 

わかるわかるあの中に中に入ってく曲はわかる。

しかし、世界はもっと広い、おそらく。そしてあの時代を振り返りたくないわけよ、感覚的にだけ言うとこんな感じでした。

もっと広く複雑で素晴らしい世界があることがやっと大学くらいになってわかった的なものです。

 

それが、です。

ここから本題なわけですが、

ロンドンの空の下で尾崎豊を、i tune storeに入っていた為、聴いてしまったわけです。

 

おそらく何気なくではなく、藁をも掴む思いで。

なんだか何もかもがうまくいかないし、こちらの気持ちが英語ができないことで伝わらなくて相当なストレスを抱えているのが続く状況。

前任者の負の遺産を整理しなくてはならないやるせなさ。

 

それで、やっぱり、イヤホンの中の音楽にグググと引っ張られ内向的な中で、彼の曲を聴いて、やはり救われてしまった。

(そもそもの性格がそういうのを求めるのかもしれないけれど…)

 

そうです。

たまには、窓ガラスだって壊したくなるわけです。

大人になっても。

 

行儀よく真面目なんて糞食らえと思った、てね。

戦い続け、あがき続けた♬ 

早く自由になりたかった♬

生きるために計算高くなれと言うが♬

真実よ安らかに♬

やっぱり今日も同じこと繰り返してしまうのだろう♬

 

まぁ、でも本質的には会社なんて辞めればいいだけだし、日本には帰ればいいわけだし、選択肢が少ない子供時代より、大人は楽なはずなんですよね。

まぁ、でももがいているわけです。

おそらく、そこも性格的なものとして。

 

因みにきみちゃんは、誰かのクラクションという客の『ピアノの指先のような街の灯りの中』というフレーズが好きです。

 

あと、存在という曲の

受けとめよう 目眩すらする街の風の中』というフレーズも。

 

本当に、彼の作ったフレーズは、色気があるなぁ。内向的なことに関係なく、フレーズのかけらは、キラキラとやはり輝いていると思う。

 

因みに、真木よう子さんの趣味は尾崎豊の曲を聴くこととテレビで言っていて(きみちゃんよりも若い!)、へぇぇと思った記憶があります。
だから?

というのも変ですが、まぁ、とっても変ですが、私が尾崎豊を好きでも、コモンよ、私をめんどくさいと敬遠しないでください。

 

人にはたまには、見つめなくはならない闇があり、その闇を見つめ続けないと前に進めない時もあるようです。

そして、たまにその闇は漆黒の闇になるのです。

 

ふぅ、やれやれ、やっかいなことに。

 

戦っているのは、自分自身に対してなのかもしれないね。